ギザの第一ピラミッド
ピラミッド
ギザの3大ピラミッドやスフィンクスはあまりにも有名なのでわざわざ紹介することもないのですが、ここのピラミッドはどれも登頂は禁止されています。 旅行者の中には夜中にこっそり登って朝日を拝んだとか自慢する人が時々いるのですが、禁止されているものは遺跡保護のためにも自重しておきましょう。賄賂をばらまきながら登頂したことを本に書いていた人もいますが最低の行為です。
ピラミッドの中は見学出来るしすばらしいのですが、かなり蒸し蒸しします。カイロの街からはバスもたくさんあるので行くのは簡単です。
· いずれも第4王朝; B.C.2545-2450。
· クフ王のピラミッド;底辺長230.364m、現状の高さ約137.18m(元は146m)、傾斜角51度52分。
· カフラー王のピラミッド;底辺長215.8m、現状の高さ136。5m(元は143.5m)、傾斜角52度20分。
· メンカウラー王のピラミッド;底辺長108.5m、高さ約66.5m、傾斜角51度。
· クフ王の在位は B.C.2545-2520頃、カフラー王の在位は B.C.2510-2485頃、メンカウラー王の在位は B.C.2485-2457頃。
左が最大のクフ王のもので、 手前、頂上に化粧石があるのがカフラー王のピラミッドです。
ギザの3大ピラミッドは砂漠の上にあるわけではありません。
そんなことをしたら砂に沈んでしまいます。
ピラミッドは丘の頂上を切り崩した岩盤の上にあります。
ピラミッドはかつては、全体が化粧石で覆われていましたが、 色々な建築のため持ち去られてしまいました。
今は、カフラー王の頂上付近にわずかに残っているだけです。
さて、このピラミッドはどれくらいの重さがあるのでしょうか?
答え560〜600万トン。重たいですね〜。
実感がわかないでしょうから、こんな計算をしてみました。
日本の総人口 約1億2000万人
平均体重 約50kgとすると(勝手であやふやなな仮定)
120000000×50=6000000000kg
=600万トン
ピラミッドの正確な重さや、日本人の平均体重などあやふやな数字を 使っていますが、ほぼ釣り合う重さです。
さて、このピラミッド何の目的で作られたのでしょう?
ファラオのお墓ですよね。
しかし、ピラミッド内部からは、ただの一度も王のミイラが発見されたことはありません。と言われても答えは盗掘されたからとことなるかと思います。
クフ王のピラミッドの内部への出入口はただの一つです。 現在観光客が出入りする「盗掘口」と呼ばれているところです。 これは、9世紀にアルマムーンがあけたものですが、王の玄室は現在と同じで、全くの 空であったそうです。
カフラー王のピラミッドの出入り口は19世紀にイタリア人ベルツォーニが発見したものですがやはり、空の棺がポツリとあっただけでした。
ピラミッドはマスタバ(意味はベンチ)と呼ばれた台形の墓を積み重ねることによって誕生しました。ジュセル王の階段ピラミッドがそれです。その発展の仕方からすると、墓であることが当然のように思われます。
ジュセル王の子、スネフェル王は巨大ピラミッドを3ヶも作りました。メイドゥムの崩れピラミッド、ダハシュールの屈折ピラミッド、真正ピラミッドがそれです。自分の墓を複数作る必要があるでしょうか?
墓ではないとしたら、何の目的で作られたのでしょう?
これはピラミッドを完全に調べてみないと分からないでしょう。ピラミッドの石を全て上から取り除いていけばいいのです。何もギザの3大ピラミッドではなくても、崩れかけているものでいいのです。しかしそんなお金がエジプト政府にあれば、当然別の目的に使うでしょう。
そうそう、クフ王のピラミッドの玄室の下には別の部屋があることが、明らかになっています。しかし現在の技術では入ることができません。何が入っているのでしょうか?
古代エジプト史上、最も大きなピラミッドです。建設当時の高さは147m、底辺の一辺は230m、斜面勾配は51度50分です。その後、外側の化粧石が剥されて(盗まれた)しまったため、高さは10mほど低くなってしまっています。当時はすべての面が花崗岩の化粧石に覆われていて、光り輝くようであったと言われています。このピラミッドがクフ王のものであると最初に述べたのはヘロドトスです。彼は「歴史」の中で、クフ王について、ピラミッド建設のために民衆を強制的に働かせた残酷王として描いています。しかし、今日では、農業の行えないナイル川の氾濫期に、農民の失業対策になっていたと考えられており、いわば出稼ぎ工事のようなものだったのでしょう。長い間、第1ピラミッドがクフ王のものである証拠が見つかっていませんでしたが、1839年にイギリス人ハワード・ヴァイズにより、重量軽減の間にヒエログリフに囲まれたクフ王の名前が発見されました。
ピラミッド建設を指揮したのは、クフ王の宰相ヘムオンと考えられています。ヘロドトスによれば、建設には20年を要したそうです。石材は、主に石灰岩が用いられています。これは、ギザ付近で最も簡単に入手できる、石材の中では軽くて加工しやすい石材です。上に行くほど石の大きさは小さくなっていきます。使われた石材の数は230万個と言われています。王の間などの重要部分は花崗岩が使われており、これはアスワンの方から運ばれてきたものらしいです。建設当時、表面を覆っていた化粧石も花崗岩でした。
ピラミッドが「メル」と呼ばれていたことは述べましたが、一つ一つのピラミッドには固有に名前が付けられていて、第1ピラミッドは「アケト・クフ(クフの地平線)」と呼ばれていました。
現在のピラミッドに入るための観光用の入り口は、西暦830年にエジプトのカリフ(太守)、アル・マムーンが盗掘用に開けたもので、それが偶然本来の通路にぶつかり、現在女王の間や、王の間と言われている空間を見つけました。しかし、アル・マムーンは、ミイラも財宝も何一つ発見できませんでした。なお、本来の入り口は、地上17m、中心線より東に7.3mずれた所にあります。また、ピラミッドの隣には、太陽の船博物館があります。実際にピラミッドの南に埋設してあった船で、王は死後、太陽神となり船に乗り、昼は天空を、夜は地下世界を旅すると考えられており、そのため太陽の船と呼ばれています。現在発掘されたのは一艘ですが、もう一艘が付近に埋設されているのが確認されています。
ギザ第2ピラミッド
クフ王の第1ピラミッドの隣にある、2番目に大きなピラミッドです。クフ王の息子、カフラー王により建造されたと考えられています。クフ王のピラミッドより標高が高い場所に立っているため、錯覚でクフ王のピラミッドよりも高く見えます。上部には化粧石が残っています。高さ136.5m、1辺の長さ210.5mあります。斜面勾配は53度10分あります。中には、棺の置かれた部屋が一つだけ発見されています。このピラミッドの東には、カフラー王の顔を模して造られたと言われている、スフィンクスがあります。スフィンクスは、石材を積んで造られたのではなく、元々あった丘を削って造られています。足元には、トトメス4世の夢の碑文があります。当時、スフィンクスは砂に埋もれており、トトメス4世が見た夢の中にスフィンクスが出てきて、砂を取り除いたら王にしてやる、と言ったそうです。その言葉通りにしたら、実際に王になれた、と碑文には書いてあります。スフィンクスとはギリシャ語ですが、古代エジプトでは、シェセプウと呼ばれています。ギザの大スフィンクスは特に「ホル・エム・アケト(地平線のホルス)」と呼ばれていました。
ギザ第3ピラミッド
3つのピラミッドのうち、最も小さいのが、メンカウラー王のピラミッドです。高さは66.5m、1辺の長さ108.5m、傾斜角度は51度あります。玄室は、ピラミッドの中央の地下にあります。内部からはミイラの断片が発見されたのですが、鑑定の結果、きわめて新しい時代のものである事が明らかになり、メンカウラー王の物ではない事が判明しました。南側には小さな王妃のピラミッドが3基並んでいます。ピラミッドの周りには、化粧石の赤色花崗岩が散乱しています。メンカウラーのピラミッドが小さい理由は諸説ありますが、王権の衰退と言う説がもっとも正しいように思います。メンカウラー以後のピラミッドは、大きさも小さく作りも雑で、ほとんどが崩壊してしまっている事を考えると、うなずける説だと思います。
ピラミッドという言葉の由来はどこにあるか?
ピラミッドという言葉は、ギリシア語のピラミス(ギリシア人が食べていたパン)から来ている。その他、エジプトの遺跡や地名・用語でギリシア語起源のものは多い。初めてエジプトに観光旅行に行ったのもギリシア人である。